障害児と大学生ボランティアの微妙な関係
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かれこれ20数年前、大学生だったころ、障害児と遊びに行くサークルに入っていました。1990年代後半のことです。まだ、放課後デイサービスがなかった時代なので、そういったサークルの需要はそれなりにあったのです。
日中のお出かけはもちろん、二泊三日のキャンプや雪山でのソリ合宿が定例の行事でした。障害種別はさまざまで、肢体不自由・ダウン症・自閉症やさまざまな難病の子どもたちが参加していました。イベントのときは、ごく一部の親以外の参加はありません。
個人的に仲良くなった子どもを連れ出して、温泉に泊まりに行ったり、岩手から東京や北海道に行ったりもしました。もちろん、親はいません。言語のコミュニケーションが取れなくても、生徒・学生同士ならほぼ同世代の仲間ですから、ごくごくフラットに一緒に遊べるのです。
まったく体が動かなくても、温泉に入ってしまえば体は無重力。一緒に温泉を楽しめます。お話できなくても、きれいな景色が一緒に見られれば、それだけで楽しいもの。美味しいものがあれば、実際は少ししか食べられなくても、「美味しいね」と同じ場所で同じ味を楽しむことができるのです。
しかし、親が入ってくると話は違います。
学生らにとって、親たちはたいていは20歳くらい年上、なにか言葉を発せば必ず黙って、関心があるような顔をして聞かなくてはなりません。「気の利いたアドバイス」が発出されれば、生徒・学生同士のフラットで和やかな雰囲気が一気に崩壊します。年長者がついつい語ってしまう何気ない昔話も、学生らにとっては遠い時代のこと。目の前の楽しみを邪魔するノイズでしかありません。
親は若い気持ちになって、同じところに降りて話してくれていたのでしょう。でも、年少者からすると20歳差は実に大きいもので、障害児たちとの絶妙なバランスは簡単に乱されてしまうのです。悪気がないのはわかってますが、障害児とはしょせん他人の学生らにとって「親のおことば」のパワーは絶大です。
遊んでいる数時間、泊まりなら2日くらいは、親は口出しして欲しくないなとよく思ったものでした。それは、重い障害のある子どもと過ごす中では、ある意味で安全を無視した無謀な考えでもありますが、遠くで見守るくらいがお互いにちょうどいいと、今でも思っています。
本日(2024年10月18日)、30年来の友人である板倉ミサヲさん(80代)を訪問したことで、学生時代のボランティア活動をいろいろ思い出したのでした。月に1回は、ミサヲさんや障害児を学生ボランティア数名で連れ出し、岩手のみならず日本中を遊びまわったものでした。
また、一緒にどこか行きたいなあ。親世代になった学生ボランティアたち、どうしているかなあ。