そうだ、誕生日だった。
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中野の風景はどんどん変わっていきますが,ブロードウェイ地下の8段ソフトはやっぱり懐かしい。
この歳になっても味わえるというのはうれしいですね。
今日は1段でしたが。
出雲国大学の素朴な学生1名と都内で研修中の卒業生1名(EyeMoT 3Dプログラマ)で中野を徘徊。
大好きな四文屋にも。
四文屋のキャベツ(100円)はサイコーだ。
私はあれだけで10皿はいける!
さて,生きていて嫌なことがいくつかあります。
そのうちのひとつが,誕生日に祝われること。
どうにもこうにも気まずいのです。
生まれたのは自分の努力という認識はありません。
この世に生まれてきた勇気を称えられるなら分からないでもないですが,毎年というのも多すぎる。
実際のところ,生まれるにあたって一番苦労したのは母親でしょう。
ってことは,毎年の全員共通の母の日は不要で,かわりに子どもの誕生日にお母さんを労えばよし。
母がいるということは,当然ながら子がいるわけなので,子どもを産んだ日を母の日にしたっていいはずです。
では,生まれた人が祝われる日どこにすればいいのでしょうか。
母の日や父の日のように,みんなで同じに日に祝ってもいいかもしれません。
人類共通の「誕生日」。
この世に生まれたことを感謝し,その勇気を称える日。
人種・宗教や文化は違えども,ある日生まれて,今生きていることは同じなのだから,個別の誕生日などではなく,人類共通にした方が世界平和に役立つでしょう。
そうなれば,通りがかりの人を祝ってもいいし,自分を祝ってもいい。
究極の人類愛の日。
けっこう楽しそうな気がします。
そんなこんなで,自分が努力した記憶もない誕生日を祝われるのは違和感しか感じないし,やっぱり自分なんかのために誰かが忙しくするというのも気まずいのです。
なぜ自分を祝うのか?と。
とはいえ,ムスメらの誕生日は祝いたい。
それは,生まれたあの日を懐かしく思い出す日として。
あれ?
じゃあ,誕生日は個人別のいいのかあ。