「戦争を知らない子供たち」
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被災者のみなさんには長かったのか短かったのか、1カ月が経った。
そして、今まさに、今後の復興の行方を左右する分かれ道に差し掛かっているのである。
復旧も徐々に進んできたようだが、これらは応急的なものに留めてもらいたい。
なぜなら、今回の津波で大きな被害を出した地域にまた家を建ててはいけないからである。
(当然ながら、被災地でも高台の住宅地などのライフラインは復旧する必要がある)
反対する地権者があるとしても、国家権力で私権を奪って土地を収用しないといけない。
今すぐにでも避難所から抜け出したい被災者の中には十分な貯金がある人もあろう。
そのような人の中には、懇意にしている工務店に直接依頼して、新しい家を建てる契約を進めている可能性もある。
最初の一軒が出来てしまう前の対応が必要である。
と心配してみても、建築許可を出す自治体が崩壊しているところもあるので、そうはならないかもしれないが。
ちなみに、岩手県の田老(津波太郎とも)において、近年移り住んで来た人ついては堤防の外に家を構えることもあったようである。
これは、今回津波の被害を受けた他の地域にも言えることであり、地元住民も同様である。
2011年3月11日以降に生まれた子供は直接の体験なく育っていく。
津波の教訓は、戦後の「戦争を知らない子供たち」とまったく同じ構図であり、親や祖父・祖母の世代の教訓を自分の教訓とするのには到底無理のある話である。
つまり、個人レベルの引き継ぎでは教訓の風化は免れず、国家権力により教訓を具現化する必要がある。
それには、まずは土地の利用形態を根本的に見直す必要があるのは明らかである。
本日、宮城県については被災地の復興指針が明らかになった。
「原形復旧は不可能」、これが県としての結論である。
真っ当な素案と言える。
あとは、地元の地権者との折り合いを付ける必要があるが、被害の記憶が相当に濃い今進めておかなければ、極めて困難な事業になるのは想像に難くない。
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追伸
現在、13時46分ちょうど。あの時間まで1時間。あの日のあの時間、みんな生きていた。
私はちょうど岩手の矢巾町に着いた時間であり、薄曇り春の日差しがまぶしい昼だった。